與次郎稲荷神社(よじろういなりじんじゃ/山形県東根市蟹沢)

JR奥羽本線・山形新幹線のさくらんぼ東根駅から北へ徒歩10分弱の場所にお稲荷さんがある。それが與次郎(与次郎)稲荷神社。
藩主・佐竹義宣が水戸から秋田へ国替えとなり久保田山に城を築いた際、夢に現れた白狐の「棲みかを奪われたので土地が欲しい」という頼みを聞いて稲荷社に祭った。感謝した白狐は与次郎という飛脚に化けて秋田藩に仕え、秋田〜江戸間を6日間で往復したという。しかし与次郎は「重要情報が秋田藩に漏れるかもしれない」と恐れた幕府、あるいは仕事を奪われた別の飛脚の罠に掛かり、この地で殺されてしまった。以来、この地では災いが続いたため與次郎稲荷として祀ったのだという。
鳥居の傍に建つ由来書きには狐が化けたものだという記載は無かった(ちなみに飛脚の名前は那珂與次郎となっていた)が、秋田市の久保田城跡にある千秋公園にも与次郎が与次郎稲荷神社として祀られており(佐竹義宣が与次郎の死を哀れんで祀ったという)、与次郎という人物(または狐)について神社が2つできるほどの何らかの史実はあったのではないだろうか。そして与次郎が人だったにしてもなぜ狐を持ち出して稲荷として祀らなければならなかったのか・・・京極夏彦さんの小説「巷説百物語シリーズ」の又市一味の仕掛けのような事でもあったんじゃないかと想像を膨らませると楽しくなる。
また、ドッシリとした独特の鳥居は「六田の石鳥居」と呼ばれ、室町時代に建立されたものだという。最上三鳥居の一つとされ、東根市の指定有形文化財、そして文部省指定重美術品となっている。
河童淵(カッパ淵)(かっぱぶち/岩手県遠野市土淵町土淵)

遠野といえば河童、河童といえば河童淵だろう。遠野には何箇所か河童淵があるようだが、もっとも有名なのがこの土淵にある河童淵だ。
<遠野物語 第58話>
小烏瀬川(こがらせがは)の姥子淵(をばこふち)の辺に新屋の家といふ家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆はれてありき。(後略)
馬槽(うまふね=舟形の飼葉桶)の下から村人に見つかった河童は、もう馬に悪戯はしないと約束し放されたという。この土淵の河童淵は小烏瀬川の枝沢として農業用水に利用されている蓮池川(はせきがわ)にあり、遠野物語に書かれた場所ではないようだが同様の話が伝わっている。淵の傍らにある阿部屋敷の下男が馬を洗っていた際にそういうことがあったのだという。
また、淵の近くには常堅寺(じょうけんじ)という寺があるが、ここには河童狛犬(カッパ狛犬)という頭に皿がある1対の狛犬がある。お寺が火事になったおりに河童が消火に協力したことから当時の住職が作ったのだという。
サムトの婆の碑(さむとのばあのひ/岩手県遠野市松崎町光興寺)

遠野物語の中でも特に有名な「サムトの婆」のお話。
<遠野物語 第8話>
(前略)松崎村の寒戸(さむと)といふ所の民家にて若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。(後略)
親類と言葉を交わした後、帰ってきた女は再び山へと消えて行った。それは風の強い日だったため、強風の日には「今日はサムトの婆が帰ってきそうな日だ」と言うのだという。
実際には寒戸という地名は無いが、この話は登戸(のぼと)という地であった実話であり、遠野物語の著者の柳田国男か柳田に民話を語った佐々木喜善(鏡石)がプライバシーに配慮してあえて変えたのだという説もある。碑の位置も実話ということに配慮して神隠しがあった家の場所ではなく、少し離れた場所なのだそうだ。なお、“登戸”の地名は碑の近くの橋の名“登戸橋”に今も残る。また、娘が消えた六角牛山(ろっこうしさん)は、碑に向かって左後方のかなり離れた場所に見える。
泣石・続石(なきいし・つづきいし/岩手県遠野市綾織町上綾織)

車道から細い山道を登った、綾織の山中に佇む不思議な巨石(写真左:泣石、右:続石)。
<遠野物語拾遺 第11話>
綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。武蔵棒弁慶が作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜じゅう泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。(後略)
ドルメンとは支石墓(しせきぼ)、すなわち埋葬地を囲うように並べた数個の支石の上に巨大な天井石を載せた墓だが、墓かどうかはともかくなにやら神聖な雰囲気が漂っていた。なお、続石の傍らには山の神を祭った祠があるが、遠野物語にはこの近くでの山の神の目撃譚がある。
<遠野物語 第91話>
(前略)綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、(中略)ふと大なる岩の陰に赭(あか)き顔の男と女とが立ちて何か話をしてゐるに出逢ひたり。(後略)
男女の山の神に出会った男はふざけて切りかかり、逆に谷底に蹴落とされて気絶。その後家に帰り、3日寝込んだ後に死んだという。
卯子酉様(うねどりさま/岩手県遠野市遠野町)

<遠野物語拾遺 第35話>
遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願をかけると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。
現在では小池は見当たらないが、裏を流れる小川がその名残なのか、訪問時は見逃したもののそこに今でも片葉の蘆(あし=葦)が生えているという。
しかしなんといってもこの社で目に付くのは、境内の樹や張り巡らされた綱に結び付けられたたくさんの赤い布だろう。「祠の前にある木々の枝に左手だけで赤い布を結びつけることができたら、縁が結ばれる」といわれている。淵の主に男女の縁を願う際、片葉の葦に願いを書いた紙を結びつけたというが、その風習が変化したものだろうか?
また案内板によれば、鮭の背に乗って宮家と倉堀家の先祖が猿ヶ石川を遡りここに辿り付いたという面白い家の由来譚が伝わっているらしい。遠野物語拾遺も(卯子酉様の名は出ていないが)その由来譚に触れている。
<遠野物語拾遺 第138話>
遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗って入って来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。(後略)
愛宕神社(あたごじんじゃ/岩手県遠野市綾織町新里)

遠野には何箇所も愛宕神社があるが、ここで紹介する新里の愛宕神社が最もよく知られた存在だろう。
卯子酉様の傍から石段を登った愛宕山の山上に鎮座している。火防(ひぶせ)の神として有名で、遠野物語拾遺にも火事にまつわる話が収録されている。
<遠野物語拾遺 第64話>
愛宕様は火防の神様だそうで、その氏子であった遠野の下通町辺では。五、六十年の間火事というものを知らなかった。ある時某家で失火があった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶の水を小さな杓で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。翌朝火元の家の者大徳院に来たり、昨夜は和尚さんのお蔭で大事に至らず、まことにありがたいと礼を述べると、寺では誰一人そんなことは知らなかった。それで愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということがわかったそうな。
神社の神様がお寺の和尚さんの姿で現れたというのが面白い。また、火防とは関係ないがこの地にはこんな話もある。
<遠野物語拾遺 第136話>
遠野の豪家村兵の家の先祖は貧しい人であった。ある時愛宕山下の鍋が坂という処を通りかかると藪の中から、背負って行け、背負って行けと呼ぶ声がするので、立ち寄ってみると、一体の仏像であったから、背負って来てこれを愛宕山の上に祀った。それからこの家はめきめきと富貴になったと言い伝えている。
徳島県のオッパショ石を連想させる立ち上がりで、これまた面白い話だ。
なお、火防の神であると同時に境界の神でもあり、城下町の境界に位置し、旅立ちの際に安全を祈り家族と別れる場所であったという。現在でも麓の卯子酉様が遠野町なのに対し愛宕神社が綾織町というように、町境に位置している。